2026年版『GTO』では、50代になった鬼塚英吉が令和の高校へ戻ってきました。
反町隆史さんの鬼塚や主題歌「POISON」には1998年版の懐かしさがある一方、第1話では生徒が教師を評価する制度、第2話では周囲に合わせて夢を隠す生徒や、タブレットを使った「鬼塚外し」が描かれています。
そのため、「昔のGTOをそのまま復活させただけではないか」「鬼塚の強引な指導は令和では時代遅れではないか」と感じた人もいるのではないでしょうか。
第2話時点の2026年版『GTO』には古く見える部分がありますが、1998年版の単純な焼き直しではありません。
変わらない鬼塚を、教師も生徒から評価され、人間関係の失敗を恐れて本音を隠す令和の学校へ置くことで、熱血教師が現代でも必要なのかを問い直しています。
この記事では、第1話と第2話の具体的な場面を振り返りながら、1998年版との違いと、2026年版『GTO』が本当に時代遅れなのかを整理します。
- 1998年版と2026年版で変わった学校や生徒の問題
- 第1話と第2話からわかる令和版GTOの特徴
- 鬼塚の古さと作品そのものの古さを分ける基準
GTO 2026(令和版)は時代遅れ?第2話時点の評価を先に結論
2026年版『GTO』で目立つのは、鬼塚英吉の考え方が1998年版から大きく変わっていないことです。
鬼塚は学校の規則や周囲の評価より、目の前の生徒を助けることを優先します。相手が拒んでも問題へ踏み込み、自分が正しいと思ったことを迷わず実行します。
現在の教育現場で同じことをすれば、熱血指導ではなく、行き過ぎた介入やパワハラと受け取られる可能性があります。
ただし、2026年版は鬼塚を現代的で無難な教師へ作り替えてはいません。昔と変わらない鬼塚を、1998年とは異なる学校環境へ置いています。
第1話では、生徒から寄せられるフィードバックによって教師の順位が決まり、鬼塚も低評価を避けようとして、生徒へ笑顔で接していました。
ところが、不登校の片山健太を知ると、鬼塚は評価を上げるためだけではなく、健太本人の問題へ深く踏み込んでいきます。
第2話では、鬼塚の評価を上げると約束した伊藤結が、マスゲーム部を作るために協力を求めました。しかし物語が進むにつれ、問題は部員が集まるかどうかではなく、結が自分の好きなことを堂々と言えない点にあるとわかります。
2026年版は、古い鬼塚を現代風に変えるのではなく、変わらない鬼塚が令和の評価制度や人間関係へどう向き合うかを描く作品です。
第1話|健太の物語から見る令和版GTOの変化とは
2026年版『GTO』の第1話は、不登校の生徒を学校へ戻すことが目的ではありませんでした。
描かれたのは、教師評価制度が導入された学校で、孤立や罪悪感を抱えた健太と鬼塚がどう向き合うかという物語です。
1998年版にも鬼塚が生徒を救う展開はありましたが、第1話では令和ならではの悩みが物語の中心に据えられていました。
健太が学校へ行けなくなった本当の理由
健太は学校へ来なくても卒業できる環境にあり、父親も無理に登校させようとはしていませんでした。学校側も「学校へ来ることだけが正しいわけではない」という考えを持っています。
不登校の生徒を力ずくで教室へ戻すことが正解ではないという考え方は、1998年当時よりも現在の教育に近いものです。
しかし、鬼塚は健太が学校へ来ないことだけを問題にしたのではありません。
健太は新型コロナで母親を亡くし、自分が感染させたのではないかという罪悪感を抱えていました。父親とも距離ができ、誰にも触れずに過ごしていたことが明かされます。
鬼塚は、登校そのものではなく、健太が誰にも助けを求められない状態にあることを見抜いていました。
鬼塚は教師評価より健太を選んだ
第1話では、教師ランキングや生徒による評価制度が導入され、鬼塚自身も評価を気にする様子が描かれます。
一方で健太は、自分に見立てた人形を高い場所から落としたり、川へ流したりして、鬼塚が本当に助けてくれるのかを試しました。
鬼塚は危険な行動に付き合い、最後には鍵のかかった部屋へ入り、命を絶つふりをした健太を助けます。
川へ飛び込んだり扉を壊したりする行動は、令和の教師として見れば適切とは言えません。
それでも鬼塚は、「学校へ来なければならない」と説教するのではなく、「お前が死んだら俺が寂しい」と、自分自身の気持ちを率直に伝えました。
教師として評価されることより、一人の生徒を救うことを優先した姿勢こそ、第1話の鬼塚を象徴する場面と言えます。
第1話で見えた1998年版との違い
その後、健太は鬼塚のバイクにつかまり、人の体温に触れて涙を流します。そして翌日、自ら教室へ現れ、「ケンケン」というあだ名をクラスへ伝えました。
鬼塚が変えたのは出席状況だけではありません。母親の死を自分の責任だと思い、人との接触を避けていた健太が、再び人と関わろうとする一歩を踏み出したことが大きな変化です。
1998年版でも鬼塚は、生徒が抱える傷へ踏み込み、学校の外まで追いかける教師でした。
ただし2026年版では、不登校を一方的に悪いものとは描かず、その背景にある孤立や喪失感、自己否定を丁寧に掘り下げています。
鬼塚の熱さは1998年版と変わりませんが、生徒が抱える問題は令和らしいものへ変化している――それが第1話で示された、旧作との最も大きな違いでした。
第2話|結がマスゲーム部を作りたかった本当の理由
第2話では、伊藤結が「マスゲーム部を作りたい」という夢をきっかけに、令和の高校生が抱える人間関係の悩みが描かれました。
一見すると部活動を立ち上げるエピソードですが、本当のテーマは「好きなことを好きと言えない空気」と「失敗することへの恐れ」です。
第1話で孤立していた健太の成長も描かれており、第2話は夢を追う結と、それを支える健太の物語としてつながっています。
結はなぜマスゲーム部を作りたかったのか
第2話では、結が鬼塚へマスゲーム部を作りたいと相談します。
結は、自分の希望を聞いてくれれば鬼塚へ高評価を付けると持ちかけました。教師が生徒へ評価され、その評価を交渉材料として使われる関係は、2026年版ならではの設定です。
部活動として認められるには5人の部員が必要でしたが、鬼塚が作った募集チラシに生徒たちはほとんど反応しません。
それでも、第1話で学校へ戻った健太は部長を引き受け、結と一緒にマスゲームをする日を信じ、一人で練習を続けていました。
しかし結は、周囲の女子生徒から「マスゲームなんてダサい」と言われると、自分も興味がないように振る舞ってしまいます。
鬼塚は結を屋上へ連れて行き、一人でも練習を続ける健太の姿を見せました。そして、「好きなら好きだと言わなければ仲間は集まらない」と伝えます。
勇気をもらった結は昼休みの教室で、自分がマスゲームを好きになった理由をクラスメートへ語りました。
中学時代に友達ができず孤立していたこと、マスゲームへ誘ってくれた相手が初めての親友だったこと、高校では別々になったものの、「それぞれの学校でマスゲーム部を作ろう」と約束していたことを打ち明けます。
結が本当にかなえたかったのは珍しい部活動を作ることではありません。マスゲームを通じて仲間を作り、親友との約束を守ることでした。
しかし、本音を打ち明けても、生徒たちは昼食や塾を理由に教室を後にし、その場ですぐに仲間が集まることはありませんでした。
この描写は、主人公の熱意だけで周囲が動く1998年版のような学園ドラマとは異なり、令和の高校生らしい距離感を表しています。
結はなぜ退学まで考えたのか
部員集めが思うように進まないなか、結は男子生徒に屋上へ呼び出され、不適切な行動を取られそうになりますが、鬼塚が間一髪で止めに入りました。
その出来事をきっかけに、結は現在の学校を辞め、親友が通う高校へ入り直してマスゲーム部へ参加すると決意します。
表面だけを見ると夢をかなえるための前向きな選択にも見えますが、鬼塚は「困るたびに逃げ道を作り、うまくいかなければ別の場所へ行こうとしている」と結へ指摘しました。
結自身も、本気で夢を語ったあとに笑われたり否定されたりすることが怖く、「失敗するくらいなら最初からやり直した方がいい」と考えていたのです。
つまり結が恐れていたのは、マスゲーム部を作れないことではなく、本気になった自分を否定されることでした。
健太の成長が結を救った理由
退学のあいさつを終えた結を正門で待っていたのは、第1話で鬼塚に救われた健太でした。
健太は「結が別の学校へ行っても、自分が部長になってマスゲーム部を作る」と伝えます。
第1話では「自分なんていなくても誰も困らない」と思い込んでいた健太が、第2話では誰かの夢を支えるため、自分から行動を起こせるまで成長していました。
鬼塚が一人の生徒を救った経験が、次の生徒を支える行動へ受け継がれた瞬間でもあります。
さらに鬼塚や柏原実央、宮澤龍之介たちも加わり、結の前でマスゲームを披露します。その姿を見た結は退学を思いとどまり、「もう一度みんなと一緒に頑張りたい」と学校へ残る決断をしました。
終盤は熱血学園ドラマらしい明るい展開でしたが、第1話で孤立していた健太が、今度は結を支える側へ成長したことに、第1話から積み重ねられた物語の変化が表れています。
第2話はマスゲーム部を作る物語ではなく、失敗を恐れて夢を諦めかけた結と、その背中を鬼塚と健太が押した成長の物語として描かれていました。
1998年版と令和版GTOの違いを比較|学校の問題はどう変わった?
1998年版と2026年版の違いは、スマートフォンやタブレットが登場したことだけではありません。
鬼塚が立ち向かう問題の形そのものが変わっています。
教師が評価する側から評価される側へ変わった
1998年版では、教師や学校が生徒を評価し、進路や成績を決める力を持っていました。
鬼塚は、学歴や校則、教師の権威を重視する学校へ反発する存在でした。
2026年版では、生徒からのフィードバックによって教師にも順位が付きます。
第1話の鬼塚は、低評価を避けるために笑顔で生徒へ接し、不登校の健太を登校させれば評価につながると考えていました。
第2話でも、結は自分の頼みを聞くことと高評価を結びつけています。
教師が生徒の機嫌を気にし、生徒も評価を交渉材料にできるため、1998年版とは力関係が変わっています。
ただし、誰もが評価を気にする状況では、教師が生徒へ必要なことを言えなくなる危険もあります。
鬼塚は低評価を恐れながらも、最終的には健太や結へ厳しい言葉を伝えました。この矛盾が2026年版の中心になっています。
生徒の反抗は正面衝突から静かな排除へ変わった
第2話の最後には、1年B組のタブレットへ、鬼塚を外し、存在しないものとして扱おうとする書き込みが現れます。
書き込んだ人物は明かされず、健太と結が教室を見渡すと、クラス全員が疑わしく見える状態で終わりました。
1998年版の生徒は、教師へ直接反抗し、いたずらや対立を目に見える形で示すことが多い作品でした。
2026年版では、本人へ理由を伝えないまま、共有された言葉に周囲が合わせ、相手を集団から外そうとします。
タブレットは第2話で突然登場したものではなく、第1話から教師評価や生徒の情報を扱う学校環境の一部として使われています。
第1話では評価を通して教師を動かし、第2話では短い書き込みを通して鬼塚を孤立させようとする流れが続いています。
便利な機器そのものが悪いのではありません。問題は、顔を合わせずに評価や排除へ参加できることです。
生徒の悩みは反抗より孤立と自己否定へ寄っている
第1話の健太は、母親の死を自分の責任だと思い、父親や他人との接触を避けていました。
第2話の結は、好きなことを否定されるのが怖く、周囲に話を合わせ、失敗すると学校を変えてやり直そうとします。
二人に共通するのは、学校へ反抗したいわけではなく、自分を受け入れられず、人との関わりから逃げようとしている点です。
鬼塚は二人へ正しい答えを教えるのではなく、自分自身を否定しないよう伝えます。
1998年版の鬼塚らしい熱さを残しながら、扱う悩みを孤立や自己評価の低さへ変えていることが、2026年版の更新点です。
令和版GTOはなぜ時代遅れと言われる?3つの理由
学校の問題が現代向けに変わっていても、2026年版が古く見える場面はあります。
特に鬼塚の行動や問題の解決方法には、1998年版の感覚が強く残っています。
鬼塚の熱血指導は令和ではパワハラに見える?
第1話では、鬼塚が健太の家へ何度も出向き、危険な救出の練習に付き合い、鍵のかかった部屋の扉を壊しました。
健太が集団で命を絶とうとする車へ乗ったと知ると、鬼塚は車の前へ立ち、乗っていた人物たちを外へ出します。
健太を救いたい気持ちは理解できますが、鬼塚自身や周囲の命を危険にさらす行動でもあります。
第2話では、結へ近づいた男子生徒を鬼塚が追い払いましたが、その後に学校としてどのような対応をしたのかは詳しく描かれていません。
生徒を守るには、鬼塚が相手をにらみつけるだけでなく、被害を受けた結の心のケアや、男子生徒への正式な対応も必要です。
鬼塚の情熱を見せるために制度や手続きを省略しすぎれば、作品そのものが昔の感覚のままに見えてしまいます。
最後は鬼塚の熱意で解決する流れが昔ながらに見える
第1話では、鬼塚の言葉と行動によって健太が登校し、第2話では、鬼塚たちがマスゲームをすることで結が退学を思い直しました。
傷ついた生徒が鬼塚の熱意に動かされ、最後には前向きになる流れには安心感があります。
一方で、健太と父親の関係や、結が失敗を恐れるようになった背景は、鬼塚の働きかけだけですべて解決する問題ではありません。
毎回、鬼塚の熱い言葉と派手な行動で生徒が立ち直る形が続けば、1998年版の成功例を繰り返しているように見える可能性があります。
2026年版らしさを出すには、鬼塚がきっかけを作った後、生徒や家族、教師たちが関係を立て直す過程も必要です。
教師評価やタブレットだけでは令和らしさは生まれない
教師評価、SNS、タブレット、不登校への理解など、2026年版には現代を意識した要素が数多く登場します。
ただし、新しい機器や制度を登場させるだけでは、現代の学校を描いたことにはなりません。
第2話で学校支給のタブレットに鬼塚を外そうとする書き込みが行われた点には、なぜ教師が確認できないのか、学校は投稿を管理していないのかという疑問も残ります。
現代的な仕組みを使うなら、その仕組みが学校でどう運用され、問題が起きたときに誰が責任を持つのかまで描かれると説得力が増します。
鬼塚が古い人物であることは物語の狙いとして成立しますが、周囲の学校描写まで雑であれば、作品全体が古いという評価につながります。
鬼塚が時代遅れでも作品まで古いとは言えない理由
2026年版『GTO』を考えるときは、「鬼塚が時代からずれていること」と「作品の考え方が時代からずれていること」を分ける必要があります。
鬼塚が周囲の評価を気にせず、生徒へ強く踏み込む姿は、令和の教師像から外れています。
しかし、その鬼塚がいるからこそ、第1話の教師ランキングや、第2話の結が周囲へ話を合わせる姿が、より息苦しく見えます。
第1話の鬼塚は、低評価を恐れて生徒へ愛想よく接していましたが、健太の命が危険だと知ると、評価とは関係なく動きました。
第2話の結は、マスゲームが好きだと堂々と言えず、部員集めに失敗すると、学校を変えてすべてをやり直そうとしました。
どちらの話も、他人からどう評価されるかを気にする人物へ、鬼塚が自分の本音をぶつけています。
鬼塚の言動が古く見えることは、評価や失敗を恐れる現在の空気と比べるために意味があります。
一方で、作品が鬼塚の方法をすべて正しいと扱い、現在の教育に必要な配慮や手続きを軽く見るなら、作品そのものが時代遅れになります。
2026年版に求められるのは、鬼塚が令和の学校を一方的に変えるだけではなく、鬼塚自身も現代の考え方から学ぶことです。
生徒へ踏み込む勇気と、相手の意思や安全を尊重する姿勢を両立できれば、1998年版とは違う50代の鬼塚を描けるはずです。
第2話時点の評価|令和版GTOは今後に期待できる?
第2話までの2026年版『GTO』は、1998年版の人気要素をそのまま並べただけの作品ではありません。
第1話では、教師も生徒から評価される学校で、鬼塚が低評価を恐れながらも、健太の命と孤立へ踏み込みました。
第2話では、結が自分の好きなことを周囲へ言えず、失敗を消すために退学しようとします。鬼塚は結の代わりに夢をかなえるのではなく、自分の夢を恥ずかしがらずに語るよう求めました。
さらに、第1話で救われた健太が、第2話では結を支える側に回っています。
一話ごとの問題を解決するだけでなく、生徒同士の関係が少しずつつながっている点は、連続ドラマとしての具体的な変化です。
その一方で、危険な行動や強引な介入、鬼塚の熱意によって短時間で問題が解決する流れには、昔ながらの学園ドラマらしさも残っています。
第2話時点の2026年版『GTO』は、時代遅れな作品というより、昔と変わらない鬼塚が令和の評価社会で通用するのかを試している作品です。
今後、鬼塚外しを行う生徒側の理由や、教師評価制度の問題を丁寧に描ければ、2026年版ならではの『GTO』として成立するでしょう。
反対に、現代的な題材を出しながら、最後は毎回鬼塚の熱意だけで解決する形が続けば、1998年版の焼き直しという印象が強まる可能性があります。
GTO(2026)まとめ
2026年版『GTO』には、鬼塚の強引な指導や、熱い言葉で生徒を立ち直らせる展開など、1998年版を思わせる部分があります。
一方、第1話では教師評価制度の中で孤立する健太、第2話では周囲の目を気にして好きなことを言えない結が描かれました。
鬼塚が向き合う問題は、学校の権威への反抗だけではなく、他人からの評価を恐れて本音を隠す人間関係へ変化しています。
また、第1話で鬼塚に救われた健太が、第2話では結の夢を支える側へ回った点からも、生徒たちの変化が次の物語につながっていることがわかります。
ただし、鬼塚の危険な行動や、学校として必要な対応が十分に描かれていない点には、令和の学園ドラマとして気になる部分も残ります。
第2話時点では、2026年版『GTO』は1998年版の単純な焼き直しではなく、変わらない鬼塚が令和の学校で通用するのかを描く途中段階にあります。
今後は、「鬼塚外し」を進める生徒たちの本音や教師評価制度の問題に加え、鬼塚自身が現代の考え方から何を学ぶのかにも注目したいところです。
鬼塚の熱さを残しながら、令和の生徒や学校が抱える事情をより深く描ければ、2026年版ならではの新しい『GTO』になっていくことが期待されます。
- 2026年版『GTO』には1998年版を思わせる熱血さが残っている
- 第1話では教師評価制度と健太の孤立が描かれた
- 第2話では周囲の評価を恐れて夢を隠す結が描かれた
- 第1話で救われた健太が、第2話では結を支える側へ成長した
- 教師評価やタブレットを通じた排除は令和版ならではの問題である
- 第2話時点では単純な焼き直しとは判断できない
- 今後は鬼塚外しの理由と鬼塚自身の変化に期待したい



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