『もしがく』最終回ネタバレ感想|主人公が最低すぎ?共感ゼロで終わる衝撃ラストと視聴者の本音

2025年秋ドラマ
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2025年秋ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(通称:もしがく)』がついに最終回を迎えました。

しかしその結末に、多くの視聴者から「共感できない」「最低な主人公だった」「終わり方が最悪」といった不満の声が噴出しています。

本記事では、『もしがく』最終回のあらすじから、主人公・久部三成に対する視聴者の本音、さらにはSNSで話題となった評価や不満点の分析まで、徹底的にまとめてお届けします。

この記事を読むとわかること

  • 『もしがく』最終回のストーリー展開と結末
  • 主人公・久部三成に視聴者が共感できなかった理由
  • SNS上で噴出した不満や感想の傾向と評価の二極化

最終回のあらすじ|暴かれる嘘と崩壊する劇団、久部の転落と再出発

最終回では、主人公・久部三成の過ちが次々に露見し、劇団クベシアターが崩壊していく様子が描かれます。

久部は自らの行動により、周囲からの信頼を失い、劇団員たちの離反と劇団の解散という結末に直面します。

10月水10ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』最終回12/17(水)60秒予告

終盤では、過去の仲間たちがそれぞれの道を歩む中、久部が静かに舞台から身を引き、別の人生を歩み始めるという姿が印象的に描かれました。

絵を破った犯人は久部、自作自演の罪が露見

劇団員・朝雄が描いた絵を久部は台無しにしてしまい、その罪を大瀬になすりつけます。

結果として大瀬は仲間から距離を置かれますが、樹里が久部にプレゼントしたハンカチが大瀬の衣装に入っていたことで嘘が露見。

「ハンカチなんてどれもいっしょだ」という久部の言葉に対し、樹里は強く非難し、久部自身も開き直ります。

この場面では、久部の責任逃れや感情の未熟さが露わになり、周囲との信頼関係に大きな亀裂が入ります。

是尾のトラブルと劇団内部の動揺

酩酊状態で劇場に現れた是尾に対し、久部は厳しく責任を追及。

ファンである黒崎に誘われたと説明する是尾に、ケントちゃんも頭を下げて許しを乞いますが、久部は「同じ過ちを繰り返す人間に芝居は任せられない」として退団を言い渡します。

一方で観客には「体調不良による降板」と説明し、お酒に頼らない舞台復帰を望み、支払いは私がすると言って出ていく。

リカの配役変更と蓬莱の進言

蓬莱は、オフィーリア役にリカは適さないと主張し、代役にモネを推すことで劇の質を保とうとします。

久部は動揺しますが、周囲が自分とリカの関係を知っていたことに気づき、しゃがみ込む。

「ハムレットを成功させたいなら、大きな決断をしてください」という蓬莱の言葉が、久部の心を揺さぶる場面となりました。

金の持ち出しと横領疑惑の発覚

仮歯から請求された58万円を支払うため、久部は金庫から金を持ち出します。

この行動が、蓬莱によって指摘され、51万円が帳簿から消えていることが判明。

久部はダンサーへの個人的な貸し金だったと説明しますが、久部がステージに行くと、そのダンサーいざなぎダンカン(小池栄子)がいて嘘がバレ、劇団員の信頼を失います。

劇団の解散と久部の退場

劇団内で孤立した久部は、蓬莱に劇団を任せ、自らは身を引くことを宣言。

大瀬からの「芝居を教えてほしい」との願いにも応じず、劇団クベシアターは事実上の解散を迎えます。

久部は、かつての仲間から総スカンを食らう中、何も言わずに劇場を去る決意を固めます。

リカとの別れと、失われた時間

久部はリカに再び声をかけますが、彼女は「あなたと一緒にいたら夢が叶わない」ときっぱりと別れを告げます。

彼女が語る過去と再起への強い意志が対照的に描かれ、久部の涙とともに、ふたりの関係が静かに終焉を迎えます。

樹里の旅立ちと、最後の言葉

久部は樹里からシェイクスピアの知識や考え方を聞かされ、「自分のためだけに芝居を作っている人に、人はついてこない」という言葉を受け取ります。

その後、樹里は転勤で引っ越すことを伝え、久部に感謝の気持ちを伝えて去っていきます。

2年後の再会、そして新しい久部の人生

物語は2年後に移り、WS劇場はお笑い劇場に変貌、かつての面影はなくなっていました。

蓬莱はテレビ局で活躍し、かつての劇団員たちもそれぞれの道を歩んでいます。

一方、久部は「スッカスッカ弁当」の配達員として働いており、舞台からは完全に離れた生活を送っています。

しかし、かつての仲間たちが集まって小さな部屋で稽古を続けている様子を見かけ、久部は静かに微笑みます。

最後に、かつてローラー族に渡したボストンバッグが彼の元に戻り「この世はすべて舞台。男も女も役者に過ぎぬ」というシェイクスピアの言葉とともに、物語は幕を閉じます。

最終回に対する筆者の正直な感想

『もしがく』最終回を見終えた筆者の感想は、率直に言って「終わりよければすべてよし」とはならなかったというものでした。

2025年秋ドラマの中でも特に期待していた作品の一つであり、脚本・三谷幸喜、放送局・フジテレビという組み合わせから、かつての名作『古畑任三郎』や『王様のレストラン』のような秀逸なドラマを予想していました。

しかし実際には、その期待値の高さが裏目に出た印象でした。

筆者が強く感じたのは、「出演者の豪華さに驚かされただけで、ストーリー自体には共感できなかった」という点です。

物語はシェイクスピア作品を軸に据え、演劇というテーマを通して人間模様を描こうとした意図が見え隠れしていましたが、演劇やシェイクスピアに馴染みのない筆者にとっては、ややとっつきにくい内容だったことも否めません。

また、登場人物たちの会話や行動が演劇的である分、ドラマとしての現実味に欠け、物語に没入しにくい印象を与えてしまったのではないでしょうか。

最終回の中で、「自分だけのために芝居を作っている人に、人はついてこない」という台詞がありましたが、筆者はこの言葉をそのままこのドラマ全体に対して言いたくなったと感じています。

つまり、制作者の内輪的な世界観が強く出すぎた結果、視聴者が置いてけぼりになったという構図です。

さらに、最終的に主人公・久部は、自らの過失や横領、そして信頼喪失によって劇団を解散に追い込み、渋谷・八分坂を去るという形で物語は幕を閉じます。

この展開には、主人公に共感できる余地が少なく、感情移入しにくいという問題がつきまといました。

再出発を予感させるラストであっても、結局このドラマで何を伝えたかったのか、凡人の自分には理解できなかったです。

視聴者の不満点を徹底分析

主人公・久部に共感できない最大の理由とは

もっとも多く寄せられていたのは、主人公・久部三成への強い嫌悪感と共感の欠如です。

ストーリーを通じて、久部は一貫して独善的な言動を繰り返し、他者を傷つける選択ばかりを取り続けました。

「自分見失ってるのはどっちなんだ」「最低すぎて見ていられなかった」など、SNSには怒りにも似た声が相次ぎ、最終回を目前にして離脱する視聴者も少なくなかったようです。

とくに最終回では、嘘・責任転嫁・金銭トラブルが一気に露見し、それでも開き直る姿が描かれたことで、「成長がない」「むしろどんどん酷くなるだけ」と失望する声が圧倒的でした。

期待を裏切る展開とストーリー構成への不満

『もしがく』に対しては、開始当初から「三谷幸喜作品」への期待が非常に高かったこともあり、それを裏切られたという反応も多く見受けられました。

「サクセスストーリーが見たかった」「破滅の音が毎回聞こえて辛い」といったコメントに見られるように、視聴者は成長や逆転劇といったカタルシスを求めていたことが明らかです。

それに対して、久部の転落と孤独だけが描かれた結末は、「ただのバッドエンド」「もはや苦行」とすら形容されており、エンタメとしての満足感が著しく低かったことが伺えます。

作品のトーンと演出が視聴者と噛み合わなかった

演出面に対する指摘も少なくありませんでした。「演出がイマイチ」「三谷イズムが悪い意味で前に出すぎた」「主役の叫びがずっとキツかった」など、視聴に疲れを感じたという意見が目立ちました。

また、重すぎるストーリー展開とコメディ要素のアンバランスに対し、「もっとコメディ寄りだったら見れた」「蓬莱(神木隆之介)が唯一の癒しだった」という声もあり、作品のトーンに一貫性がなかったことが指摘されています。

物語の結末に対する視聴者評価は二極化

久部がすべてを失って劇団を去るという最終回の展開は、視聴者の評価を大きく分ける要素となりました。

肯定的な声では、「久部が芝居の原点に戻れた」「豪華キャストによる重厚な演技は見応えがあった」「大団円ではないが残酷でリアルな終わり方だった」といった意見が見られました。

一方で、否定的な意見の方が多数を占め、「何も伝わってこなかった」「結局、誰も救われていない」「最終回なのに“終わった感”がない」と厳しい反応が多く見受けられました。

「2時間映画にすれば良かった」「話が散漫で長すぎた」という構成に対する批判や、「ラストの弁当配達というオチにがっかりした」といった声も多く、視聴者の納得感が非常に低かったことは明白です。

シェイクスピア的手法と視聴者のリテラシーギャップ

本作はシェイクスピアの引用や構成、演劇界の風刺が随所に盛り込まれており、それが好きな層には「深い」「通好み」と映った一方で、背景知識がない視聴者には取っ付きにくい作品でもありました。

「80年代演劇へのオマージュと言われてもわからない」「マクベス?ハムレット?でついていけなかった」という意見が多く、視聴者のリテラシーに委ねすぎた構成がマイナスに働いたと言えるでしょう。

その一方で、「俳優の演技力に救われた」「わからなかったけど引き込まれた」との感想もあり、演技陣のパフォーマンスだけは高く評価されていたのが救いでもありました。

「面白かったけど疲れる」視聴体験としての評価

本作に対し、「観てよかった」と語る視聴者もいましたが、その多くが「体力のいるドラマだった」と感じていた点が特徴的です。

「理解できないまま終わってしまった」「何かを描こうとしていたのはわかるが、受け手の想像力に委ねすぎた」など、視聴者に説明を放棄したような演出に困惑したという感想が多く見られました。

結果的に、見続ける根気と演劇へのある程度の造詣が必要な作品だったとも言え、万人向けのドラマとは言いがたい評価で終わっています。

「もしがく」最終回ネタバレ感想のまとめ

『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』最終回は、破滅的な主人公・久部三成の結末を中心に描かれ、多くの視聴者に重苦しい後味を残すエンディングとなりました。

劇団内での信頼を失い、仲間からも離れ、最後には演劇の舞台から遠ざかるという物語の流れは、従来のドラマにあるような「希望」「再生」「感動」といった要素が希薄でした。

視聴者からは、主人公への共感の難しさや、ストーリー展開の陰鬱さに対して不満の声が多数寄せられた一方で、作品が持つテーマ性や演劇的表現、俳優陣の熱演には一定の評価も集まりました。

特に、シェイクスピアの引用や舞台演出の妙が際立っていたことから、演劇好きな層や深読みを好む層には刺さる構成となっていたとも言えます。

一方で、広く一般のドラマ視聴者にとっては理解しにくく、親しみにくい物語構造だったことが、視聴率やSNSの反応からも明らかでした。

また、コメディとシリアスのバランスが崩れていたとの指摘も多く、「三谷幸喜作品としての期待が高すぎた」という声も見逃せません。

最終的に、『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』は視聴者を選ぶドラマであり、受け取り方によっては深く刺さる作品にも、全く共感できない作品にもなり得たという二面性を持っていました。

「この世はすべて舞台。男も女も役者に過ぎぬ。」というシェイクスピアの言葉を掲げたこの物語は、久部のように舞台を降りる者、そしてまた舞台へ戻ろうとする者、双方の人生を描ききったとも言えるでしょう。

感動やカタルシスを求めた視聴者にとっては決して満足できる結末ではなかったかもしれませんが、このドラマが何を描こうとしたのか、その問いは視聴者それぞれに委ねられたまま、物語は幕を下ろしました。

この記事のまとめ

  • 『もしがく』最終回では久部の暴走が劇団崩壊を招く
  • 主人公に共感できないという視聴者の声が多数
  • 破滅的な展開に「苦行だった」と感じた人も
  • シェイクスピア的構成に評価と困惑が二極化
  • 感動やカタルシスのない結末に落胆の声が広がる

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